湖国近江の景観美を表現した「近江八景」はよく知られていますが、明治時代になり、その発展形として選定された「近江二十四勝」や「琵琶湖三十六勝」の知名度は高いとはいえない……、どころか、おそらく全く知られていません。
当ウェブサイトでは話の種として昔から両者を取り上げていますが、私が知るかぎり、インターネット上には一覧すら見当たらないため、簡易なものですが、当方でリスト化して公開しておきます。
「近江二十四勝」や「琵琶湖三十六勝」は、「近江八景」と同様、すべて「対象地」+「事象あるいは事物」の組み合わせで成立しており、「近江八景」と対象が被る選定地もありますが、八景の決まり(様式)に捉われず、「事象あるいは事物」を変更することで独自性を出そうとしていることが窺えます。
1892年(明治25年)に出版された『淡海廿四勝圖記』(淡海二十四勝図記)に収録される「近江二十四勝」の特徴として、おそらく「琵琶湖三十六勝」の影響を強く受けているであろうことが挙げられます。
24の選定地すべてが「琵琶湖三十六勝」の対象地と被っていますが、組み合わせとなる事象・事物が微妙に異なったり、あるいは同じだったりします(異なる場合でも、解説文で「三十六勝」の事象・事物を取り上げていたりします)。
「近江二十四勝」は並びこそ乱雑な印象を受けますが、ただ列挙するのみの「琵琶湖三十六勝」と異なり、絵と文による解説により、現代において、それぞれがどの地を指しているのかの推察がきわめて容易となっています。
「膽吹早雪(伊吹早雪)」近江二十四勝
2019年(平成31年)1月より撤去作業が始まる烏丸半島の風力発電「くさつ夢風車」も左下に写っています。
残念ながら、「伊吹山と奥島と風車」の構図も、これで見納めです。お疲れ様でした。
「近江二十四勝」一覧
原文表記 | 新字体など | 大雑把な比定地 | 所在地 | 8 | 36 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
上巻 十二勝 1878年(明治11年) 選定分 | ||||||
石山夕照 | 石山夕照 | 石山(伽藍山) | 大津市 | ○ | ○ | 石山寺 |
三井曉烟 | 三井暁煙 | 園城寺(三井寺) | 大津市 | ○ | ○ | |
鍼嶺浮嵐 | 針嶺浮嵐 | 摺針峠 | 彦根市 | ○ | 望湖堂 | |
叡山積翠 | 叡山積翠 | 比叡山 | 大津市 | ○ | 延暦寺 | |
大碕澄月 | 大碕澄月 | 海津大崎 | 高島市 | ○ | ||
松岬清風 | 松岬清風 | 長命寺松ヶ崎 | 近江八幡市 | ○ | ||
長等櫻花 | 長等桜花 | 長等山 | 大津市 | ○ | ※後述 | |
越溪楓葉 | 越渓楓葉 | 永源寺 | 東近江市 | ○ | 越渓橋 | |
百如爽籟 | 百如爽籟 | 千界山百如庵 | 米原市 | ○ | 能登瀬 | |
三上紅暾 | 三上紅暾 | 三上山 | 野洲市 | ○ | 近江富士 | |
鹿瀨八潭 | 鹿瀬八潭 | 八ツ淵の滝 | 高島市 | ○ | ||
松山重瀑 | 松山重瀑 | 楊梅の滝 | 大津市 | ○ | ||
下巻 十二勝 1879年(明治12年) 選定分 | ||||||
伊﨑石壁 | 伊崎石壁 | 伊崎山 | 近江八幡市 | ○ | 伊崎不動 | |
大洞水禽 | 大洞水禽 | 大洞弁財天 | 彦根市 | ○ | 佐和山 | |
橋殿啼鵑 | 橋殿啼鵑 | 求法寺走井堂 | 大津市 | ○ | 日吉大社 | |
雄松歸鷺 | 雄松帰鷺 | 雄松崎 | 大津市 | ○ | ||
膽吹早雪 | 胆吹早雪 | 伊吹山 | 米原市 | ○ | ||
安土餘霞 | 安土余霞 | 安土山 | 近江八幡市 | ○ | ||
沖嶼微燈 | 沖嶼微灯 | 沖島 | 近江八幡市 | ○ | ||
鎧巗巨浪 | 鎧巌巨浪 | 鎧岩 | 大津市 | ○ | 北小松 | |
唐碕松影 | 唐碕松影 | 唐崎 | 大津市 | ○ | ○ | |
笙嶋波音 | 笙嶋波音 | 竹生島 | 長浜市 | ○ | ||
賤岳宿雲 | 賤岳宿雲 | 賤ヶ岳 | 長浜市 | ○ | ||
勢多驟雨 | 勢多驟雨 | 瀬田橋 | 大津市 | ○ | ○ | 唐橋 |
出典・『淡海廿四勝圖記』 1892年(明治25年)
※上巻分の12勝は1878年(明治11年)に選定、下巻分の12勝は1879年(明治12年)に選定
国立国会図書館デジタルコレクションより、上巻はこちら で、下巻はこちら で閲覧できます。
表中、「8」の列は「近江八景」と地名(対象地)が共通する場合に、「36」の列は「琵琶湖三十六勝」と地名(対象地)が共通する場合に丸印を付けて示しています。
あくまでも「地名」が共通する場合であって、謳われる風景や光景(事象や事物)まで同じかどうかは問いません。
いずれも景勝の美を描いていると解釈しているため、両者の区別は付けていません。
注釈
「長等櫻花」について
『淡海廿四勝圖記』では「北接比叡山(北は比叡山と接する)」、「南隣逢坂山(南は逢坂山と隣する)」、「其頂稱如意岳(その頂を如意ヶ岳と称する)」としており、「近江二十四勝」がいう「長等」は三井寺さんの裏山にあたる長等山(如意ヶ岳の東に所在する長等山)を指すことは明白です。
よって、この「長等櫻花」の「長等」について、こちらでは三井寺さんの裏山の長等山と比定しておきます。
明治時代になり、三井寺別所寺院の尾蔵寺さんや近松寺さん(高観音)のあたりが「長等公園」として整備され、多くの桜が植樹されました。
長等公園が整備されるに至った経緯は、西川太治郎(峡陽)による、1927年(昭和2年)の『長等の桜』に非常に詳しく。
『長等の桜』の序文でも触れていますが、古来、長等山は山桜の名所として知られており、
爲業の歌合に、故鄕花
小波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくら哉『忠度集』
平忠度が詠んだの歌はよく知られるところです。
この歌は『千載和歌集』に「故郷花といへる心をよみ侍りける」を詞書として収載されますが、そちらでは「讀人しらず」(詠み人しらず)としています。
源平の争いに敗れて都落ちした忠度の立場を、忠度の歌の師であり、『千載和歌集』の撰者である藤原俊成が憚ったものとされます。
「小波や(さざなみや)」は「志賀」や「ながらの山」に対する枕詞で、琵琶湖の沿岸域でも、とくに園城寺(三井寺)や近江大津宮を詠んだ歌で多用されてきました。
この歌の「ながら」は「昔ながら」と「長等の山」に掛かっています。
長等の地は近江大津宮や大友皇子(弘文天皇)とも関わりが深く、三井寺さんの北に弘文天皇陵と治定された丘(弘文天皇 長等山前陵)が所在します。
いわゆる「壬申の乱」は江戸時代の国学者、伴信友の『長等之山風』が詳しく。
長等公園の山の上に、この歌の歌碑が建てられており、現代において、付近は「桜ヶ丘休憩広場」(桜広場)として開かれています。
『長等の桜』や、公園の案内板を見ても、長等公園の山をも「長等山」と見なしていらっしゃるようですが、現代における標高点354m峰の長等山(三井寺さんの裏山の長等山)とは少しばかり離れており、扱いが難しいところです。
長等公園の山は広く「長等山系」あるいは「長等連山」の一部とは見なせますが、山としては相場山や逢坂山の一部であり、「其頂稱如意岳(その頂を如意ヶ岳と称する)」山からは外れています。
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「琵琶湖三十六勝」のリスト
https://www.kyotocity.net/diary/biwako-36sho/
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